東京・秋葉神社

 秋葉神社(あきばじんじゃ)は、台東区松が谷3-10 にある神社です。
 江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、現在の秋葉駅周辺の地は秋葉の原と呼ばれる火除け地でした。 当初の名は鎮火社といい、
 明治2 年(1869)暮れの大火を受けて焼失、明治天皇の勅命 により翌年に現在のJR 秋葉原駅構内の 地に火の神、水の神、土の神の三柱を祭
神として皇居の紅葉山から勧請した神社です。
 鎮火社はいつしか秋葉社となり、明治21 年(1888)に日本鉄道が建設していた現在の東北本線が、上野駅から秋葉原駅まで延長されること
になり秋葉の原の土地が払下げられたことに伴い神社は現在地に移転されました。
 その後、昭和5 年に秋葉神社と改名されました。
 台東区台東4-21 にも秋葉神社があります。これは旧秋田藩佐竹氏の藩邸跡の一画にあたり、佐竹秋葉神社と通称されており鳥居と本殿だけ
の極めて小さい社です。火之迦具土大神が祭神です。

東京・足立区・国土安穏寺本堂

 日蓮宗の国土安穏寺は応英17年(1410) 經王院日通聖人が開山し、千葉満胤が開基となり創建、長久山妙覚寺と称しました。
 日通は宗祖日蓮聖人にゆかりある本間氏の出身で、懇意にしていた日祐聖人の遺命を奉じ、寺院の建立に努めたとされます。
 その後、徳川秀忠・徳川家光父子が巡遊して御善所となります。
 徳川家光が当時住職であった日芸聖人に、寺号山号を尋ねたので、日芸が「長久山妙覚寺」と答えると「天下山国土安穏寺」と号しなさいと命名した伝承があり、寛永元年(1624)に徳川家の祈願所・位牌安置所となり、現寺号を賜り葵紋の使用も許されました。
 三代将軍家光が日光社参の際、日芸聖人が宇都宮では厳重に警備をするよう忠言、宇都宮釣り天井事件があったので将軍家より日芸の代に限り十万石の格式と葵紋の使用許可を与えられたとの伝承があります。
 現在の諸堂は鐘楼を除いて昭和以降の建立です。

同系色の調和は街並みの基本

都市景観の基本はその地域に合うテーマカラーが大切である。この画像は特殊なカラーではあるが、分かり易い実例として呈示した。
偶然か郵便局のシンボルカラーの赤と少林寺拳法の日本の本部のドームの色が類似であったためか、示し合わせた様に街並みを形成し始めている。
実際には街並みはこの様に単純ではないが、簡単な協調性でも現代日本人が最も不得手な分野である。諸外国の例も、江戸期までの例を見るにつけ、大人の常識が当たり前の日本になって欲しいと、環境ディレクターとしては常に願っている。
電柱でさえ、国会議員も、経済界も、知識人も、金が掛かるなどを理由に放っておく程度の民度を超えて、慈しみの優しい国を、心の文明をも期待したいと思う。

高知の伝統建築の青

高知県には豪勢な民家が多くある。その中で気付いたのは瓦屋根の母屋の庇の取り付け部の上に、細い白の縁取りのあるコバルトブルーに近い青色のストライブがあるではないか。何かの風習ではと思うが他では見たことがない。白黒グレー自然素材色が主体の瓦屋根の建築物がとても新鮮に見える。

東京・三宝寺根本大塔

 三宝寺(さんぼうじ)は、東京都練馬区石神井台にある真言宗智山派の寺院で、山号院号寺号は亀頂山 密乗院 三寳寺です。
 石神井公園にある三宝寺池の名の由来になっています。別称として石神井不動尊(しゃくじいふどうそん)とも呼ばれています。
 当寺院は、応永元年(1394)に鎌倉の幸尊法印(?~1398)によって開かれました。当時、石神井城を築き付近を治めていた豊島氏からも帰依を受けていました。場所は現在石神井池の傍にある禅定院付近でした。
豊島氏が滅んだあと、太田道灌により現在地に移転されました。
 後北条氏や徳川家からも保護を受けて発展し、徳川家光の鷹狩の際に休憩場としても使われ、朱印地十石を与えられ、また無本寺になり格式ある寺院となりました。山門は徳川家ゆかりの門ということで、御成門と呼ばれ、現在の門は文政十年(1827)に建てられたものです。境内の長屋門は勝海舟の邸宅にあった門です。

東京・六義園

 五代将軍綱吉の家臣柳沢出羽守保明、後の柳沢吉保は、元禄18年、松平加賀守の上屋敷であった染井村の約45,862坪の土地を江戸幕府より拝領し、元禄文化のさなかにあって吉保は、「別荘庭園」として活用することを考え、廻遊式築山泉水庭園の造成を考えた。
 それは、保明の文芸趣向に基づいた作庭であり、本郷の広大な平坦な土地に、山を築き、池を掘り、流れを引き、紀伊国の和歌浦の景勝を写し万葉集や古今和歌集より名勝の景勝を取り出し、八十八境を写しだすことで、その庭園の名を「六義園」と名付けた。
 六義とは詩道の基本とする六つの体で、「賦(ふ) 感想を述べたもの」「比(ひ) 例をとり感想を述べたもの」「興(こう) 外物にふれ感想を述べたもの」「風(ふう) 民間で行われる歌謡」「雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻」「頌(しょう) 宗廟頌徳の詞藻」をいう。
 明治時代に岩崎弥太郎の所有となり、その後、東京市に寄贈され、現在は東京都の公園となっている。

東京・上野・旧寛永寺五重塔

 東叡山円頓院寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺です。
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。
 後には第四代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。
 また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となったのです。
 六代将軍以来、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続きました。
 堂塔は延暦寺の様式に準じて造営されました。
 寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されました。
 旧寛永寺五重塔は重要文化財として残っています。

東京・足立区・炎天寺

 開山は1053~1058年のお寺です。
 源頼義、源義家父子の軍勢が前九年の役に出征のために当地を通りかかった賊に遭遇して苦戦した際、八幡神に戦勝を祈願して勝利を得ることができ、六月の出来事だったことから村名を六月村とし、源氏の旗(幡)が勝ったことから山号を「幡勝山」、祈願が成就したことから院号を「成就院」、炎天続きだったことから寺名を「炎天寺」としたとのことです。
 また、八幡神を祀るために当寺の隣に六月八幡神社を創建し、八幡神を祀るために当寺の隣で別当寺となっていました。
 そういう経緯もあって寺と神社を分ける塀は途中で切れており、事実上入口が二つで、境内が一体化しています。
 当寺は「俳句寺」「蛙のお寺」として知られています。江戸時代の俳人小林一茶は江戸に住んでいた時に当寺をたびたび訪れており、一茶の俳句として有名な「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」、「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」などが、ここで詠まれています。